この時代はまだギリギリまでTOYOに残って受験準備をするのが普通でした。
早めに帰国する生徒にS台を勧めていたのも、このころまでです。
この少し後にちょっとしたことがあって、それ以降、すべての卒業生に代々木ゼミナールを勧めるようになりました。
毎年必ず何人かの生徒が、TOYOの想定以上の大学に合格してしまう「代ゼミマジック」
今では、ほぼ全員が卒業後すぐに日本に帰り、日本で現場試験の準備をしています。
K.C.君体験談の前半はこちら
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学校の成績も努力したおかげで、何とか卒業は保障された。
まさに危機一髪。卒業式のときも、ある意味で一番祝福されたかもしれない。
そして何にも余裕が無いまま、いよいよ受験が間近になってきた。
受験まであと三ヶ月、私は漢道を歩む決意をした。
八月二十六日、早稲田大学の試験を一週間に控えた私は日本へ帰国した。
今回の帰国はいままでのような遊びが目的の帰国とは違う。そう、合格なのだ。
「とにかく勉強するしかない」、この決意を胸に私は成田空港から二十分のところにある自宅へと向かった。
帰国した日の翌日から私は勉強に取り掛かった。
私が受験する早稲田大学の試験は、現代文、英語、小論文の三つだ。
まずは自分の弱点である漢字の勉強を始めた。
アメリアに三年間滞在していたせいか、私は漢字がかけなくなっていたのだ。
漢字は帰国の直前までTOYOで勉強していたのだが、受験の当日まで更にやり込む必要があった。
勉強方法としては市販の参考書を使い、とにかく漢字をたくさん書いた。
だが漢字は英単語と同じで一夜漬けでは覚えられない。
継続が大事なのだ(説得力が無い)。
もしこれからの受験生で漢字が苦手と思うなら、一文字ずつでもいいので、
毎日漢字の書き取りを続けてみらたいかがだろうか。
きっと立派な漢字博士になれるだろう。
そんな訳で漢字の勉強に一生懸命取り組んだのだが、漢字の勉強はかなり疲れる。
結構疲れる。
本当に嫌になる。
疲れてしまうと、勉強が面倒なものに感じでしまう。
おそらく、勉強が得意な人は、ここで我慢し、勉強を継続する才能を持っているのだろう。
あいにく私はその才能に恵まれていないので寝ることにした。
こんな生活が三日間ぐらい続いた。
試験が三日後になると、さすがの私でも焦りを感じた。
「もう寝るのは辞めよう」 と決心した私は小論文を何枚か書いてみた。
そこで私は兄に頼み、小論文の評価をお願いした。
「う~ん、いいんじゃない?」
これが兄の感想である。
私は少しためらいながら、兄に聞き返した。
「ああそう、じゃあ他に何か指摘は?」
これを聞いた兄はこう答えた。
「うん、お前ね、ここの漢字が間違っているよ」
兄の指摘とアドバイスはそれだけであった。
いろんな不安を抱えながらも、ついに早稲田の試験日がやってきた。
私は朝六時半の電車に乗り、約一時間半で早稲田大学に着いた。
正門の前には大きな看板が立てかけており、そこには「海外帰国生特別試験」と墨で大きく書かれていた。
「入学式じゃねえぞ!」と一人でノリツッコミを入れながらキャンパスの中へ進んでいくと、
既に多くの帰国生が集まっていた。
想像以上に受験生が多かったので素直に驚いてしまった。
集まっている受験生の様子を伺ってみると、どうも知り合い同士で固まっているようである。
「大丈夫だよ~○○ちゃんなら絶対受かるよ~」こんな台詞がよく耳に入った。
しばらくすると「TOYOが誇るオタク」こと、H君がやってきた。
彼は日本でも相変わらず特別なオーラを纏っている。
さすがと私は関心しながら彼と一緒に教室へと向かった。
教室に入ってみると、また受験生の多さに驚かされた。
私の席に座り、試験官が来るのを待っていると、誰かが私の肩を叩いてきた。
振り返ってみるとその人は私が以前通っていた塾の生徒だった。
「ああ、久しぶり~」とお互いに声を掛ける。彼と会うのは私が塾を辞めて以来である。
彼との会話は試験官が教室に入って来るまで続いた。
試験官が教室に入って来ると教室が静寂に包まれ一気に緊張感が高まった。
しかし、私はこの時ある疑問で頭がいっぱいになっていた。
「あいつの名前なんだっけ?」
そう、私はついさっきまで会話をしていた「生徒」の名前が思い出せないでいた。
思い出そうとしても名前がでてこないのだ。思い出せそうなのだが、何故か思い出せない。
「これはきまずい」と悩んでいると、いつのまにか試験官の説明や問題用紙の配布が終わり、試験が始まった。
最初の試験は現代文である。
現代文の出題形式は一般的で文章の読解と漢字。
両方とも決して簡単ではなく、日本語力に自信のない受験生は苦戦するかもしれない。
現代文の試験が終わると、次は英語の試験。
英語の試験はリーディング、文法、エッセイの三つで、どれもTOEFLと似たような内容である。
英語が得意な人なら全く問題のないレベルだろう。
そして最後は小論文である。
小論文の試験は課題文式で、ある文章を読み、それについて自分の意見をのべるといった内容だ。
問題の文章を読んでいて気がついたのだが、現代文と小論文の課題文は全て「時間」がテーマであった。
アメリカにいるときから小論文の勉強を積んできたが、「時間」というテーマは今まで書いたことがなかったため、
かなり戸惑ってしまった。
自分なりにアイディアを出し、小論文を書き上げたが、うまく仕上がらなかった。
一筋縄にはいかないものである。
こうして私の最初の入試が終わった。早稲田の次はいよいよ上智である。
九月二十日、この日は上智大学の試験日であった。
この試験で私は初めて面接試験を受けることになったのだが…
上智大学の試験会場に着くと、早稲田と同様、多くの受験生が集まっていた。
この日は全ての学部で面接があったので全員スーツを着ていた。
しかし、私が着ているのは中学時代の制服。
紺のブレザーに灰色のズボンは予想以上に目立つ。
今すぐにスーツを買いに行こうか迷った。
服のことはあきらめて、私は試験に臨んだ。
私が受けた学部は総合人間学部の社会学科で試験は小論文であった。
この小論文は少し特殊で、ある新聞記事を読み、その記事に対して自分の論を述べるといった形式だった。
新聞記事の内容は「日本人の結婚観」についてで、その記事によると、結婚をした方がいいと考える日本人が増えているとのことだった。
更に、別の問題用紙には日本での結婚の数を表しているグラフが載せてあり、
それによると結婚の数は減っているとのことだった。
問題は「何故結婚を望む人が増えているのに、実際の結婚の件数は減っているのか?
あなたの考えを述べなさい」というものだった。
「最近の男性は女性からあまりもてない」と書きたいところであるが私はとりあえず、少子化の視点から考え、
論を書いてみた。結果、論文は立派な駄作に仕上がった。
小論文が終わり、「次はいよいよ面接だ」と思って準備をしていると、予定が変更になり、
私を含む受験生の半分が二時間後に面接を行うことになった。
二時間は結構長い。待ち時間の間、受験生のほとんどが席に座り、大学のパンフレットなどを読み始めていた。
私は何故か面接に関して、とても自信を持っていたので大学の近くの本屋で時間をつぶすことにした。
早速本屋に入ると、私は「20世紀少年」の最終巻を見つけた。
しかも、あと一冊しか置いていない。
とりあえず先にその漫画を買ってから立ち読みを始めた。三十分後、本屋を出ようとしたとき、
また、ある本が目に飛び込んできた。
そしてその本を手に取り、数ページを確認した後、レジへと直行した。
「妄撮」
私は千七百円分の男の夢を手に入れたのであった。
上智大学に戻ると、面接が始まった。
試験管が私の名前を呼び、私は部屋の前にある椅子で待機する。
面接を終えた受験生が部屋から出たところで、ついに私の番がやってきた。
ドアをノックすると「どうぞ~」の声。
私も「失礼します」と\お辞儀。
その後は塾で習った一連の動作で席に座る。面接管は二人。
最初に面接官が学部の志望理由を聞く。
この質問に対しての模範解答は事前に考えていたので、すぐに返答できた。
だが、おかしなことに面接官の反応がなかなか返ってこない。「
あれ?」と思いつつも面接は続く。
しばらくして、面接官が高校生活の思いでについて質問をしてきた。
私は高校で苦労したこと、楽しかったことなどを熱く語った。
「これはうまく言えた、さあ!何か質問してみろ」と身構えたが、面接官の反応は相変わらず「……」である。
言葉のキャッチボールが全く成立していない状況だ。
二人の面接官の様子を見てみると、なんだかとても、だるそうである。
そう、彼らは私に対して全く関心が無いようなのだ。
嫌な沈黙が続く。そんな雰囲気の中、彼らは次に将来のことについて質問してきた。
この質問も想定内、なんのひねりもない。「将来はジャーナリストを目指したいです」と私は回答する。
すると面接官は「そうですか」とただ一言。ここでまた変な空気になる。
もう自分で話を膨らますしかないと焦った私はこの話を更に細かく、長く、説明した。
まるで、一人で壁に向かって喋っているような感じだ。
色々と一人で喋っていると、面接官の机の上に置いてある時計のアラームが突然鳴り出した。
「これは終わりの合図なのか?」とアラームは私を更に悩ませる。
話を途中でやめるわけにもいかないので、もう少しだけ話を続けてみた。
そして話を終わらせ、私は面接官の反応に期待した。
そして面接官が一言、「はい、なるほど。え~と、では今日はどうもありがとうございました」。
まるで打ち切り漫画のような展開である。
面接が終わり、部屋を出る際に一礼すると、面接官の一人が更に一言。
「おつかれ~」(ごみをポイ捨てするような感じで)
面接が終わり、しばらく私は心地よい敗北感に酔いしていた。完敗である。
いや、完敗ではなく、これは相手の不戦勝なのだろう。
帰りの電車の中で私は衝動的に、車内に落ちているごみくずを拾い、家へと持ち帰った。
十月四日、この日は中央大学法学部の試験があった。
この時点で早稲田と上智は不合格という結果が判明していた。
そろそろ合格が一つ欲しいところではあるが、この試験に対するモチベーションはゼロであった。
その理由として、本来は文学部社会学科を受験する予定でいたのだが、
試験日が明治大学政治経済学部の試験日と重なってしまうため、
仕方なく法学部を受験することになったのが一つ。
もう一つの理由は中央大大学がかなりの田舎に位置していたからである。
これは事前の下見をしたときに初めてわかったことで、「ここには刺激的なものがないな」と思い、
一気に中央大学に対する興味がなくなってしまった。
私がここで学んだことは実際に大学を訪れて、雰囲気を知ることは大学を選ぶ際に重要だということである。
自分が想像している大学の印象と、訪れることで実際に感じる印象は、いい意味でも、悪い意味でも、違うことが多い。
法学部は中央大学の看板だけあって、試験は難しいものだった。
やる気がなかった分、他に感想はない。
ただ、一つ驚いたのは現代文の試験で、早稲田と全く同じ課題文が出題されていたことぐらいだ。
結果は当然不合格であった。
十月十一日、この日は明治大学政治経済学部の試験日である。
明治大学は本命だったので、この日の私はとても気合が入っていた。
中央大学の試験があったときの私とはえらい違いである。
三つの大学に連続で落ちると、自然と、自身に貫禄が備わってくる。
そのせいか、私以外の受験生はすべて小物にしか見えなかった。
この日の試験は現代文と面接の二つだけである。
まずは現代文からスタート。
この日まで私は現代文を集中的に勉強してきたおかげか、すべり出しからいいペースで問題を解くことができた。
唯一、戸惑った問題はことわざに関する問題である。
「○の手も借りたい」、「○の威を借る狐」、それぞれの空欄に「孫」と書いたが、絶対におかしいと思い直し、
直感を頼りに「猫」と書いた。これは運がいいことに正解である。
「○の威を借る狐」は空欄に「牛」と書いた。これは不正解だ。正しくは「虎」である。
ことわざのような知識問題も試験にはよく出るようだ。
現代文の試験が終わると次は面接である。
面接は上智で鍛えられたので自身を持って臨むことができた。
面接官は上智と同じで二人、ただ今回はやけに面接官と私の距離が近い。
「この距離なら会話のキャッチボールはしやすい」と思った私は、チャンスを得た気分になっていた。
面接が始まると、最初はお約束の志望動機について聞かれた。
私は「強い社会人になりたい」と一言言うと、面接官は「それは具体的にどういうことですか?」と質問してきた。
このとき私はとても感激した。ついにキャッチボールが成立したのである。
私はこの瞬間をずっと待っていたのだ。嬉しくて叫びそうになってしまった。
その衝動を堪え、私は満面の笑みを浮かべ質問に回答した。
面接はこの後も驚くほどうまく進んだ。
その理由はおそらく面接官が私に対し最低限の関心を持っていたことと、私が大学のスクールカラーや
カリキュラムなどを詳しく調べていたからだと思う。
詳しく調べていると面接官との話が深まり、自然と熱意を伝えることができる。
面接が終わり、部屋を出る際に一礼すると、面接官の一人が一言。
「おつかれ~(卵をそっと手で包むような感じで)
十月十七日、この日は明治大学の合格発表だった。
試験がおわってからこの日まで、不安だらけで過ごしてきた。
とにかく祈るのみである。
合否は大学から送られてくる手紙で知らされる。
昼の一時頃、ついに手紙が届いた。
手紙はかなり薄い。
嫌な予感がする。
私は深呼吸をした後、思い切って封筒を指で開けた。
中には紙が一枚。
紙を広げて読んでみると、かなり隅っこに小さく「合格」の文字が。
本当に小さい。
まるでフェイントをかけられた気分である。
結局、合格したという実感は得られず、合格発表はどうも釈然としないものになってしまった。
現実はこんなもんである。
以上が私の体験談だ。私が受験生に言えるのはただ一言、
「がんばれ」
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