現地滞在がかなり長かったI.H.君
まだ2400点満点の時代です
出だしはよかったのですが、出だしがいい子のよくあるパターンで
気を抜いて勉強の手が止まってしまいます
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私は東洋に高校2年生(soph.)の終わり頃に入塾した。
アメリカ生まれでアメリカ育ちだった私は、英語がやはり勘で解ける事が多かった。
1420から始まったSATも、東洋と現地校でてきとうに勉強をしていたら、高校3年生(Jr.)の時には1770、
一回目のTOEFL・iBTでは100点をだした。
当時では周りより点が良い方で、更に、一年前の帰国受験用基準点数表では、
難解大学合格ラインを超えていた。
だから、「受験なんて余裕じゃん!」と痛い勘違いをしていた。
点が出ていると余裕ぶっていた私は、高校4年生(senior)の時、部活のクロスカントリー(以下クロカン)と
友達を優先して、よく東洋を休んだ。
勉強なんて、クロカンが終わる十一月からやればいいと思っていた。
せっかく一生で一度きりの高校生活で、もしかしたら最後のアメリカ生活かもしれないから、
東洋なんかで時間を無駄にしてたまるかと思っていた。
そして十一月までクロカン以外は何もしなかった。
東洋には来ていたが、授業はてきとうに受け、聞いたことはそのまま聞き流し、復習もしなかった。
どうしようもない生徒であったのだろう。
周りの生徒たちからも、そう思われていることが分かっていた。
しかし私は「ま~おまえ達よりは高校生活を楽しんでいるからいいや☆」と思って気にしなかった。
私が初めて、「俺、本気でヤバイかも(悪い意味で)・・・」と思ったのは十二月の冬季講習の時だった。
今まで私より英語ができなかった生徒、または私よりSATの点数が低かった生徒の3人が、
READINGのセンコン・パケット(20問)でマイナス1を出した。
私はマイナス9だった。
そこでアキ先生が私に言った。「(SATで)Yは2000点、Rは1880、Kは1800前半くらいの点がでてるぞ」と。
更に、他塾の子から聞いたのだが、実はTOEFLのPBTでも、彼ら3人は私よりはるかに高い点を出していたのだ。
正直にショックだった。
私が余裕ぶって遊びながら勉強をしている間に、周りの皆は頑張って確実に点を上げていた。
同じ教材、同じ授業を受けていて、誰よりも早く東洋に入塾していたのに、こんなにも差をつけられたことがとても恥ずかしかった。
しかし私は、それさえも自分にいいわけをして逃げようとした。
するといきなり、アキ先生が私を別部屋へ呼び出して聞いた。
「単語、やるの??つか勉強する気あるの??」
私は答えた。
「東洋でやる単語は、SATに出る確率は1/500個だし・・勘で解ける時もあるから、やる必要がないと思います。
それに・・・今は行きたい大学もないし、目標もなんもなくて、やる気が出ません。」
これを言った後、しばらくして不思議と目に涙がたまった。
自分でも驚いた。人生初の悔し涙だった。
よほど自分で自分の事がなさけなく思えたのだろう。
そこで、アキ先生と松村先生がその部屋で私に語った。
松村・
「なんで泣いてるかわかる?多分ヒロキ君は、今やっと自分の限界を知って、本気で悔しいと思ったんだよ。
今まで才能というか、流れに任せても色々な事がうまくできたのに、それが今はもう通用せーへん所まできてんねん。
ヒロキ君は今、「本当の勉強」を始めなきゃいけない壁にやっと直面したんや!
目標がなかったり、行きたい大学がないのはしゃーないやん!皆も多分そうや。
それに、今は大学なんて決めなくてええねん。そんなの、SATが終わった後の夏になってからいくらでも考えりゃええやん!」
ちょっとしてから、アキ先生も。
アキ・
「目標がないんだったら、今は、嫌かもしれないけどSATの点をだすのを目標にすればいいんじゃない?
これからは、後で後悔しないように精一杯努力をして、点をだして、自分が後でたくさんのCHOICEがあって、
人生を楽しめるように頑張れよ?」
アキ・
「点がまだ皆ほど伸びないのは、ヒロキがまだ勉強の仕方を知らなくて、自分のペースを知らないからだよ。
ヒロキはヒロキだよ、絶対に他の人と比べちゃダメだ。クロカンでだってそうだろ?
自分のペースで走らないと絶対に結果はでない。
流されていたら疲れるだけで、まったく伸びない。
ヒロキは今やっと自分のペースを、塾の奴ら(仲間たち)の中でつかみ始めるきっかけを見つけたんだよ。
このチャンスを逃したら、多分一生ゴール(成功)できないし、卒業した後も、どうしようもない気持ちでいると思うよ。
けど今のヒロキには、そのチャンスがある。
だからあと半年、半年だけでいいから、今から本気で、死ぬ気で頑張れよ」
と、やさしく私に言ってくれた。
私はしばらく涙が止まらなかった。こんなに私を知ってくれていて、助けようとしてくれる人達を今まで裏切り、
2年間も時間を無駄にした事に腹がたってならなかった。
その時に私は初めて、今まで何をしてきたのだろうと思った。
2年間遊んでばかりでいて、何も成長していないことに気づかされた。
泣き終わって、私は先生達に言った
「すみませんでした、これからは真剣に勉強します。」
その後、松ちゃんがいきなり笑顔で私にセンコン・パケットを7部ほど手渡した・・・・・・心の中で私は悲鳴をあげた。
(エェェーーーーーーーーーー?!いきなりーー?!?!?!)
2日後の正月の日、私は一人でしばらく考えた。
大学、就職、そして未来の自分。
この時私は初めて真剣に自分と向き合ったような気がした。
考えた結果、私はやはり同じく東洋に通っていた7歳年上の兄のように、ちゃんと慶應のような社会に強い大学に行き、
ちゃんとした仕事につくのがベストだと思った。
アメリカの大学に行き、趣味として好きだったカメラを勉強して、カメラで生きていけたらいいなとも思ったが、
さすがにそれは保障もなにもない「夢」だ。
アメリカは、実力主義であるが、同時にコネが必要な国でもある。
日本人で、たいした才能のない私がアメリカで成功するのは、本当に奇跡だろう。
だからまずは、ちゃんとした日本の大学に通い、サークルなどで本当にカメラで生きて生きたいかを理解してからでも、
アメリカに帰り、夢を追っても遅くはないと思った。
アメリカは何歳からでも大学に行ける。いつからでもやり直しがきく国だ。
しかし、日本は帰国子女枠で受けるなら、今しかない。
もしカメラがただの趣味で終わっても、日本の一流大学に行っていれば、まだ他のいい仕事につける可能性は高い。
バカな私でも、慶應のような夢のような大学に合格するチャンスがあるのだ。
これを無駄にしては、本当にもったいないと思った。
その日、私は日本の大学に行くことを、強く決心した。